丸山の遊女屋筑後屋が、茶屋を設けていたところで、中の茶屋と呼ばれ、また、唐人は千歳窩(せんざいくわ)と名付けた。この名に因んで、別名を千代の宿ともいい、内外の文人墨客が好んで遊び親しんだ。長崎奉行の市中巡検の際にはその休憩所にあてられることもあった。幕末期にできた俚謡(りよう)「長崎ぶらぶら節」には、「遊びに行くなら花月か中の茶屋」と読みこまれている。
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