唐通事会所 |
唐通事とは、唐船との貿易関係の業務・通訳を務めた役所。初めのころは、通事の自宅が会所の役目を果たしていたが、1751年(宝暦元)に、設置され、移転した。 |
諏訪神社 |
創建は寛永2年(1625)、肥前唐津の青木賢清が長崎奉行・長谷川権六に願い出て造営した。そして、寛永9年(1632)青木が初代宮司になり、同11年(1634)から祭礼を行うようになった。現在も続くこの秋の大祭・長崎くんちは、日本3大まつりの1つに数えられている。 |
シーボルト |
シーボルトの江戸参府(えどさんぷ)
シーボルトは、1826(文政9)年2月15日、オランダ商官長の江戸参府の随員として、出島を出発した。旅中、旺盛な観察意欲から、日本の自然、産業、習俗等について見聞を広め、後にその成果を笂z本繧ノ著している。同年7月7日に帰崎。 |
トードス・オス・サントス(春徳寺) |
トードス・オス・サントス(Todos os Santos)ポルトガル語で 「諸聖人」の意。長崎で最初に建てられた教会である。 永禄12年(1569)ビレラ神父によって長崎甚左衛門がイルマン・ ルイス・アルメイダに与えた土地に建てられた。 長慶2年(1597)セミナリョの一部コレジョと金属活字印刷所 が一時的にここに移された。その後慶長7年(1602)と慶長10年 (1605)修練院も開かれ、慶長17年有馬から追放 されたセミナリョはここに移り禁教令まで存続した。 教会の建物は元和5年(1619)まで残り、後に春徳寺が建立された。 当時の遺構として井戸が残っている。 |
古橋(ふるばし) |
アーチ形に組んだ石の上にある板石に強度を増す為の細工がされている事で長崎市指定文化財にもなっている。 |
一ノ瀬橋 |
昔はこの橋が歓送迎の場所だった。一の瀬橋は、承応二年1653年(眼鏡橋の19年後で石橋として三番目)明人で唐通事の頴川(陳)道隆が私費で架けた。 |
蛍茶屋 |
一ノ瀬橋のたもとに「蛍茶屋」と言う茶屋があった。
長崎を旅立つ人々は, 親族知音とここで別宴を開くのを例としていましたという・大正13年, 一の瀬川下流に蛍茶屋橋がかけられ, 大正15年, 日見トンネルが開通すると, このあたりは喧騒の巷と化し, 蛍茶屋の風情は昔語りとなりました・ |
日見嶺(ヒミタフケ) |
(1578年頃、長崎氏と戦っていて不利であった深堀氏は、背後をつこうとして、夜に網場村でさも大軍が攻めてきたように火を焚いて見せ。しかし長崎氏はその手に乗らず、深堀方の偽装作戦は失敗した。 峠から、深堀勢のかがり火が見えたので、日見峠というようになったという。) 「長崎名勝絵図」より |