長崎・中島川石橋群の写真素材

     
 

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これらの写真はNBC長崎放送(長崎デジタル街道)のバーチャル観光の制作のために撮影した写真です。

 古い長崎の面影を残しているもののひとつに中島川にかかる石橋群がある。17世紀、長崎の町並みは拡大され、護岸が構築され、ほぼ現在の中島川は形つくられた。このころはまたキリスト教禁教の時代でもあり、唐文化の導入により興福寺などの仏寺が次々と建立された時である。1634年(寛永11)興福寺の唐僧黙如の手によって、架設された日本最古のアーチ型石橋である「めがね橋」は長さ22メートル、幅 3.65メートル、川面までの高さ 5.46メートル。昔は、「日本橋」、「錦帯橋」とともに三名橋に数えられ、川面に映った影が双円を描くところから「めがね橋」の名が出たことはよく知られている。1,802年(享和3)にできた長崎古地図を見ると、これらの橋は、寺町の仏寺への参道としての役割が感じられる。中島川には14のアーチ石橋があったが(昭和57)7月23日の長崎大水害により「めがね橋」ほか2橋が1部崩壊、6橋が流失したが、「めがね橋」が、1,983年(昭和58年)10月、「桃渓橋」「ふくろ橋」が1986年(昭和60年)1月に復元。「大井出橋」「すすきはら橋」がコンクリート橋に改められ、「編笠橋」「古町橋」「一覧橋」「東新橋」が昭和の石橋として1986年(昭和61年)3月に架設された。

7.23長崎大水害

 昭和57年(1982)7月23日、記録的な集中豪雨に見舞われた長崎市は、河川の決壊、はんらん、崖崩れによる家屋の倒壊、流出などが市内のいたるところで発生、8月3日現在で死者291名、行方不明7名、負傷者287名という大惨事になった。被害総額は推定で3000億円とみられ、うち、最も多いのが商工関係で950億円。これは県内で最大の商店街「浜町アーケード街」街の2階フロアにたっする浸水が大きい原因。このほか、土木関係800億円、農林関係515億円、水道37億円、水産関係23億円と被害は全産業に及んだ。特に運転中水没流出、破壊された乗用車がで約2000台も残がいをさらした。長崎市を中心とした国道、県道などの幹線道路、国鉄は寸断され、バス、電車の運行も止まり、市周辺、市外の足は大混乱をきたした。電気ガス水道もいたるところでストップし、市民生活は約1週間マヒ状態を続けた。

 

中島川の氾らん

江戸時代も中島川は暴れ川という記録になっている。
豪雨によるものだけの記録数例

正保4年
1647年
豪雨による大洪水。この時に眼鏡橋も被災したらしい。
元禄15年
1702年
5月5日。道路上1メートル浸水。
享保6年
1721年
7月28日溺死46名、流失家屋120戸。
安永元年
1772年
8月12日 浜町大橋(現アーケード街入り口くろがね橋)流れる。
寛政7年
1795年
7月19日。木場郷の山を噴き、圧死21名、市街冠水45戸、橋18流失、流失家屋170戸。
文化元年
1804年
5月13日。大洪水、長久橋が流れる。
文化7年
1810年
3月6日、浸水は522戸。

長崎港草、市制65史、中島川遠目鏡より

 
     

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