稲佐悟真寺国際墓地
1602年に唐人墓地として開設。1654年(承応3年)にそれまで水葬とされていた在留オランダ人の死没者の埋葬が許されるようになった。
幕末になり、開港場となった長崎港に出入りする国が増えるとそれらの国の死没者も葬られるようになった。ロシア人墓地・アメリカ人墓地が設けられている。
仏教寺院境内に仏教・道教・キリスト教・イスラム教の異なる宗教の墓地が併存する珍しい形態となっている。
安政5年(1858)ロシアのフリゲート艦アスコルド号の艦内でコレラが発生し、死亡した乗組員を埋葬するために造られた。後に、日露戦争で犠牲となった兵士を合葬した集団墓地を含め270基のロシア人の墓が造られる。
墓地内のロシア正教の白いチャペルは、「日本の亜使徒ニコライ大主教の記念礼拝堂」で、昭和40年代に再建されたもの。ロシア艦隊が長崎で越冬し、稲佐一帯が「ロシア村」と呼ばれていた当時を偲ばせる建造物。
ロシア正教の十字架は、横棒が2〜3本、下の1本が斜めになっているのが特徴である。
清明節(日本の春のお彼岸にあたる、4月5日頃)の時にお供え物を飾り、お経をあげ先祖供養をする祭壇。
長崎市指定史跡 唐人墓地祭場石壇
悟真寺(ごしんじ)
悟真寺(ごしんじ)は長崎県長崎市にある浄土宗の寺院。終南山光明院。本尊は明国由来と伝えられる阿弥陀三尊像。
悟真寺境内の比翼塚(ひよくづか)の由来
万延元年(1860)4月26日、工事を行っていた石工善之助は土中より枯骨と櫛を掘出した。その日の夜のこと、喜之助の夢枕に若い女の幽霊が現れ、「私の骨を掘出して下さりありがとうございました。たってのお願いですが、ほかに男の骨が近くに埋っています、こちらの骨も掘り出し、私の骨と同じ場所に埋めてください」と頼まれた。
翌4月27日、善之助は、製鉄所の役人立会のもと土中を掘ると、男の白骨が出てきた。
こられの骨が寛文7年(1667) 密貿易の罪で磔刑に処せられた、博多の豪商伊藤小左衛門と、それを哀しんだ、馴染みの遊女で身投げ岩(岩瀬戸)から自殺した神南屋・定家の遺骨として、一つの壷にこの男女の枯骨と櫛を収め、悟真寺において、霊魂を慰めた上、寺の一隅にこれを埋葬した。
「長崎んことばかたらんば」より引用
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