異説か真実か! 誰も触れなかった真の長崎の姿を検証する。NO.2 |
長崎人のルーツは百済王朝の末裔だ。 |
長崎人のルーツは百済王朝の末裔だ。 昔の記録を調べてみると新長崎年表(長埼文献社)によれば、貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)、肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とある。ここに重大な謎が隠されていた。稲佐とはあの稲佐山の「いなさ」である。 「稲佐神の祭神は百済国聖明太子」が重要なのだ。 つまり百済(くだら)国の聖明太子(せいめいたいし)という人を神様にして祭っていたのだ。百済とは古代朝鮮の国名だ。そして聖明太子(聖明王)はその国の26代目の王様である。よく考えて欲しい。日本に稲佐神という神様はいない。そしてそこでは、百済の王様を祭っている。聖明王は立派な人物だが、倭人(日本人)が神と祭るには少し不自然である。これは単純に祖先を祭ったと考えたほうが真実だろう。ということは、稲佐には百済(くだら)国の一族が住んでいたという事である。これは紛れもない事実なのだ。 歴史が好きな人は思い出して欲しい。実は大和(日本)と百済とは切っても切れない仲なのだ。百済は唐と新羅の連合軍に660年に滅ぼされた。大和(倭)は3万の兵を出し百済王国の再建のために出兵するが、負けてしまう。そして百済の人々を二千人ほど受け入れている。その上3年間食料を援助したのである。これは友好国というより身内に対する愛情である。渡来系帰化人と呼ばれている人々は、大和(倭)の中枢にすでに根付いていたのである。だから長崎に百済王国の末裔が住みついたとしても何の不思議はないのだ。 具体的な証拠を探してみよう。まず稲佐神社である。現在はこがね山恵比須(えびす)神社となっている。恵比須は夷・戎と同意義で外国の神を指す。こがね山と 次に言葉だ。僕達の年齢は教わっていないのでわからないが戦前の人達は旧かなづかいというものを使っていた。特に五十音のわ行である。昔は「わゐうゑを」とかいて(wa
we wu we wo)と発音する。これは実は韓国音なのである。僕の近所のじいちゃんが「くぁしばくわぁんか」(菓子ば食わんか)と言っていたのを思い出す。もう一つあげてみよう。宮崎県南郷村には百済王国の末裔が住んでいた。その村の方言で「ヒンダレタ」(疲れた)というのがある。現在、ソウルでも「ヒンダレタ」 「いなさ」という名前はどこからきたのだろうか。韓国ではお寺のことを「さ」と発音する。韓国風に言うと「いなさ」とは「いな寺」と読める。祖先の霊を祭っている寺名が地域名となった可能性もあるだろう。
いずれにせよ私たちが、純粋な長崎人ならば百済の血が必ず流れている。だが今は誰も知らない話である。 写真&イラスト&文 竹村倉二 |
Copyright (C) 2005Artworks. All Rights Reserved.