Google
 
Web artworks-photo.sakura.ne.jp

異説か真実か! 不思議な童唄の真実。
でんでらりゅうの謎!!

不思議な歌が長崎にある。

でんでらりゅうがでてくるばってん
でんでられんけん でーてこんけん 
こんけられんけん こられられんけん
こーんこん

 とにかく、わらべ歌である。僕自身も子供のころに何度か口ずさんだことがある。不思議な歌詞と、調子のいいメロディーが耳のそこにこびりつくようで、忘れられない。最近、いろんな方がCDに吹き込んだりしていて、長崎の歌として市民権を得たようだ。 新しい歌かと思ったらそうではないらしい。改めてこの歌のことを調べてみると、起源が明確でないとのことである。長崎を中心に九州地方に流行、それぞれの方言でアレンジされて歌い継がれ全国に広まり、小学校の音楽の教材にも取り上げられていたことがあるらしい。これに目をつけてキングレコードが、現代風の詞と音楽をつけて昭和52年にレコードを出している。ちなみに前田良一氏の作詞作曲・歌とある。(“屋台のおっちゃん”という、大阪ではちょっと有名だった、 占いもやる不思議な屋台のおっちゃんが出したレコードの一枚です。http://we.freeml.com/ウィふり調査団より )

単純に、何かが出てくるんだけど、出てこれなくなった。という意味なのは間違いない。それにしても、デンデラリュウという言葉が妙に耳に残るのだ。

「デンデラリュウ」を調べる。

インターネットで検索してみると、http://we.freeml.com/ ウィふり調査団というページに下記のようなページがあった。抜粋してみよう。

1.「夜這いの歌」説 、「丸山の女郎さんの歌」説
2.凧上げのときに長崎で歌われる歌で、意味は「でんでら竜」(竜らしいです、「でんでら」は)にわかに広がる雲は即冒頭の「でんでら」は、専ら和文において、雲がにわかに広がる様子を表現した擬音でした。即ち雨雲であり、つまり水神の司である「龍」の出現する前兆でもあったわけです。逆に言えば、「龍」の出現イコール「雨」であった。そういう意味で考えれば、この歌は水神の「神送り」の名残りだとも言えるでしょうか。というわけで、「でんでら」は形容副詞であり、「りゅう」は「龍」。

3.「でんでら」とはオバケのことで、この歌を歌ってるとオバケが出てこないとか。
意味は「でんでらが出てこようとしているが、出てこられないので出てこない」とかいう意味だったと思いますが…

どれもそれなりに、道理のある解説である。一つずつ吟味してみたい。

1.「夜這いの歌」説 、「丸山の女郎さんの歌」説
これは、ありそうだ。
第122回直木賞を受賞した、なかにし礼氏の「長崎ぶらぶら節」で有名になった長崎ぶらぶら節にも、艶っぽい話は多い。「デンデラリュウ」も遊郭で歌われたのかもしれない。
歌詞にある「デンデラリュウ」が、実は「出て行こうと思えば、出て行けるのだけども(でんでらりゅうがでてくるばってん)」という意味合いだったら辻褄が合う。
出て行こうと思えば、出て行けるのだけども
(何かの都合で)出て行けなくなった。
(だから遊郭へ)来れなくなった。
(ざんねんだね・・)
ただ、どこかこじつけの様な感じがする。さらに、遊女たちが歌う歌にしては、「デンデラリュウ」は子どもっぽすぎる。やはり、元歌があって、その替え歌や違う意味で、はやしたてて歌っていたというほうが正解だろう。

2.凧上げのときに長崎で歌われる歌で、意味はにわかに広がる雲は即冒頭の「でんでら」は、雲がにわかに広がる様子を表現した擬音。即ち雨雲であり、つまり水神の司である「龍」の出現する前兆でもあった。この歌は水神の「神送り」の名残りだとも言えるでしょうか。というわけで、「でんでら」は形容副詞であり、「りゅう」は「龍」である。(1部抜粋)

まず 凧上げのときに長崎で歌われる歌というのが引っかかる。僕の知っている範囲で、凧上げのときにでんでらりゅうを歌っていたという話は聞いたことがない。まあ、その当時、お金持ちが丸山の芸者さんたちを引き連れてドンちゃん騒ぎをしながら「はたあげ」を楽しんだというから、そのときに「でんでらりゅう」も歌ったのだろう。

「でんでら」は、雲がにわかに広がる様子を表現した擬音、というのは、そうかもしれない。「龍」の出現イコール「雨」というのも納得はいく。この歌は水神の「神送り」の名残り。
ここの部分はどうだろうか。「神送り」とは神様を迎えたり、送ったりする行事だ。デンデラリュウの歌詞をみて見れば、「こなくなった」といっている。歌と「でんでら竜」のつながりが不明だし、不自然である。なぜ来なくなったのかが抜け落ちている。「でんでら竜」のは賛成なのだが、「神送り」の歌となればやはり不自然さを感じてしまう。

3.「でんでら」とはオバケのことで、この歌を歌ってるとオバケが出てこないとか。
意味は「でんでらが出てこようとしているが、出てこられないので出てこない」とかいう意味だったと思いますが…

これは、いい線いっているかもしれない。後で述べるが「でんでら」とは確かに霊的な場所を意味している。ただ「りゅう」の説明がないのが残念だ。

いずれも一長一短ある説明だが、どうしても、すっきり認められない。改めて独自の調査を開始した。

「でんでら」の意味

 ある時、柳田国男の「遠野物語」という本を読んでいた。
  この本は、民俗学の礎となった有名な本である。河童、座敷わらし、などの民間に伝わる伝承を、伝聞のまま書きつづったものである。なんとはなしに読み進んでいると突然「でんでら野」という言葉が目に飛び込んできた。遠野物語からその話を抜粋してみよう。

 266.青笹村の字糠前と字凡内時の境のあたりをデンデラ野またはデンデエラ野と呼んでいる。(中略)すなわち死ぬのが男ならば、デンデラ野を夜中に馬を引いて山歌を歌ったり、または馬の鳴輪の音をさせて通る。(中略)こうして夜更けにデンデラ野を通った人があると、喜平どんの家では、ああ今度は某が死ぬぞなどといっているうちに、間もなくその人が死ぬのだといわれている。
 268.昔は老人が六十になるとデンデラ野に捨てられたものだという。

このデンデラ野という場所の印象は、冥界の入口というイメージがする。または霊的な場所というイメージが強い。

また、ホームページの検索で「でんでら野」を探探すと、下記のようなページにぶつかった。

姥捨て山 岩手の高冷地、遠野には『蓮台(でんでら)野』と呼ばれる、口減らしのために老人たちを捨てたという伝説的な丘や野原が集落ごとに点在していました。老人たちはそこに小屋を造り、死ぬ まで生きるために共同生活を営んでいました。時には『蓮台野』をおりて来て、老人の豊かな知識と経験を子供たちに与えていたそうです。(猿木土 真通 http://www.kilie.com/mado/et_10.html より抜粋)

ここで初めて『蓮台(でんでら)』という漢字にであった。これは大きな手がかりだ。

さらに、大和郡山市山田杵築神社「でんでらこ」という祭りも見つけた。
山田のでんでらこ。大和郡山市 山田の杵築神社で行われる「でんでらこ」は夜に点される大松明が豪快です。この「でんでらこ」行事の所作は八岐大蛇伝承をあらわしている。
ここでは、霊的なものというより、八岐大蛇伝承である。この祭りの「でんでらこ」の漢字表記があるといいのだが、どの資料にもひらがなで載っている。残念だ。

岩手の『蓮台(でんでら)野』の蓮台の意味を調べてみた。

仏さまは、蓮の花をかたどった台に座っています。この台を蓮台(れんだい)といいます。蓮の花は仏教の象徴的な花として大事にされます。そして仏さまの座席として使われます。お不動さまはこの蓮台を頭に載せ、自分はしっかりとした大きな岩に坐っています。蓮台に乗るのは皆さんで、お不動さまは使者として、縁の下の力持ちとなって信じる人を支えることを現します。
(http://www.tctv.ne.jp/tobifudo/HandS/index.html やさしい仏教入門 より抜粋)

とある。

蓮台(でんでら)とは「レンダイ」と正式には読む。それがなまった言葉だろう。仏様の場所、それが転じて、墓地という意味だろう。

長崎のデンデラリュウと直接つながりがありそうなのは、大和郡山市山田杵築神社「でんでらこ」という祭りだろう。
八岐大蛇伝承というのは、やはり竜伝説だ。デンデラリュウの竜と同じ意味かもしれない。ただ、大和郡山市というと、日本の神話の故郷だ。
仏様の「デンデラ」と日本の神話の「でんでらこ」とあまりにもかけ離れているような気がする。「やまたのおろち伝説」は、さまざまな解釈がなされているので、ここでは結論を出さずにおこう。

とりあえず、二つの手がかりを結びつけると「災いの竜」「墓場の竜」といったイメージが生まれる。

しかし、ここで二つの疑問がわいてくる。1つは距離だ。長崎と岩手県の遠野 大和郡山市 と決して3箇所は近くはない。言葉が伝わるルートが現実にあっただろうか。
もう一つは「でんでら」という言葉が使われた背景だ。長崎にそんな事象があったのだろうか。


長崎 岩手県の遠野 大和郡山市 を結ぶ線

民話の共通性
 遠野というところは東北の山深い盆地にある。東北という土地は、田舎というイメージがあるが、平泉の藤原氏が繁栄していた地域で、黄金の産地であった。遠野は、明治になるまで、尾根づたいか、峠越えの道しかなかったが、この道は、古代から東西南北の商業、交通の要衝であったため、商人、漁師、山師、僧、山伏、旅芸人などが交流し、各地の産物、信仰、伝承、民話、民謡、などが伝わったとされている。いわいる文化の吹き溜り的な性格を有している。そして、たくさんの民話が残っている。言うなれば、日本の民話の見本市みたいな場所であった。であるから、長崎の民話にも、遠野の話がルーツになっているものがたくさんある。
  盛岡市川原町円光寺には、赤子塚という話があり、これは長崎にも伝わっている飴屋の幽霊の話とまったく同じである。長崎の中島川にまつわる河童の話など、遠野物語の河童のコピーと言ってもいい。以上に挙げた例は、遠野と長崎の民話の類似点を端的に示している。また、日本全国にこの類の話は散らばって存在していることも、つけ加えたい。人が動けば、文化も動く。我々が想像している以上に、昔は文化交流が行われていたということである。

長崎は開港以来、日本唯一の貿易港であった。さまざまな人が集合離散することにおそらく日本一だっただろう。ということは、遠野にある「でんでら野」という地名が、長崎の「デンデラ」と結びついている可能性がかなり高いという事なのである。

ただ、長崎に「でんでら」という方言は残っていない。さらに「でんでら」イコール「墓」という意味もない。


長崎の龍

長崎の龍といえばおくんちの「龍踊り(じゃおどり)」である。長崎に住んでいる僕でも「でんでらりゅう」とおくんちの「龍踊り」は結びつかない。
他所の地区の人からみれば不思議だろうと思う。おくんちの「龍踊り」は別格なのである。

「龍踊り(じゃおどり)」とは、もとは正月の催し物の一つとして長崎在住の中国人が行なっていたそうです。その後、約300年前に唐人屋敷に隣接した本籠町(現在の籠町)の住民がその技法を習い、種々の器材の寄付を受けたのが現在の龍踊りのルーツになっています。
昭和30年までは「蛇踊り」の文字が使われていましたが、その後「龍踊」「龍踊り」と表現される様になりました。老長寿の源であるとされる月(異説では太陽)を、龍が食べようとして追いかけるもののなかなか捕らえきれない様子を描写しています。籠町と諏訪町の龍踊はそれぞれ、 「国選択無形民俗文化財」「県指定無形民俗文化財」です。
筑後町龍踊 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1910/index.html より抜粋

諏訪神社のくんちはキリシタン禁止政策の一環として、長崎奉行が諏訪の神事を長崎一般の神事と認定したお祭りだ。

しかし、「デンデラリュウ(墓場の竜)」とおくんちの「龍踊り(じゃおどり)」はどうしても結びつかない。
また、ヤマタノオロチという神話ともかけ離れている。

違う可能性を探してみよう。
しかし、長崎のリュウといえば、当時住んでいた長崎在住の唐人に関係があるという事は間違いない。リュウは唐人さんのお祭りに必ず出てくるのだ。

唐人屋敷を調べる。
唐人屋敷は現在の館内町にあり、鎖国時代に出島と共に、海外に唯一開かれていた窓口だった。しかし「でんでら」が「墓場」という意味なら、ここではないだろう。この地域に大きな墓場はない。

長崎の唐人さんたちの墓場は「稲佐」にあった。

稲佐(いなさ)の悟真寺
悟真寺は、キリシタンの町長崎に慶長3年1598年最初に復興した寺院で、現存する長崎の寺院では最古である。また悟真寺は、豪族・伊奈佐治郎太夫の居館の跡といわれ、稲佐の地名の発祥地である。
後に興福,崇福,福済の唐寺が建つまでは、悟真寺が長崎在留唐人の菩提寺であったのでで、中国墓地が3分の2を占めている。
長崎奉行小笠原一庵の援助のもと、仏教興隆の政策を推進するために、悟真寺は設立された。当時の在宅唐人は稲佐とその周辺に多く住んでいて、その中の有力唐人欧陽華宇と張吉泉が、元和初期に悟真寺を菩提寺としたことから結びつきが強くなっていった。当寺を菩提寺とする在宅唐人は次々と増え続け、堂塔の建立、整備なども援助したので悟真寺は大いに発展した。
 慶長から元和にかけて当時の長崎代官末次平蔵により、在留唐人の墓地新設が幕府に懇請され、数百畝が唐人墓地として得られたという。今でも悟真寺の墓地の大半が唐人墓地であるが、唐3ヵ寺の建立により、当寺を菩提寺とする在宅唐人たちはしだいに減少していった。(抜粋)

館内町の唐人屋敷から見ると、稲佐の悟真寺は海を隔てて正面に見える。稲佐(対岸)という地域は、外国人特別地区といった歴史もあり、唐人だけではなく、朝鮮、ロシヤ、イギリスなどの人も多くすんでいた。ちなみに遊郭もあり、それは外国人専用だったと思われる。

実は、稲佐は僕の実家のある地域である。土地勘もある。
悟真寺には、蓮池というのがあった。僕も昔、悟真寺のあちゃばか(あちゃばか 阿茶(あちゃ)さん(中国人の愛称))の蓮池の竜の話を誰かに聞かされた覚えがあるのだ。

さらに「唐人墓地祭場所石壇」の解説では1659年(万治2)に長崎在住の唐人らによって造られた。死者の霊を慰めるためのもの。春秋には祭祀法要が営まれていた。
 この、新しく作られた「唐人墓地祭場所石壇」はなぜ作られたのだろうか。


唐人さんたちの大事件。

長崎の竜といえばもう一つあった。それはペーロンだ。
長崎のペーロンは、海神をまつる中国伝来の ボートレースだ。

ペーロンは「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれております。長崎で初めてペーロンが行われたのは1655年(明暦元年)頃で、 当時、暴風雨のため唐船が難破し、多くの犠牲者を出したことから、長崎在住の唐人達が 海神の怒りを鎮めるためと、自国の遊技を長崎人に誇示するために、端舟(はしけ)で競 漕したことがはじまりといわれています。 (抜粋)

「唐人墓地祭場所石壇」は1659年(万治2)に作られている。事件があった4年後である。このペーロンの始まりの事柄が以下に大事件だったか明白である。

デンデラリュウの正体
唐人の出したペーロン船(竜船)が、デンデラリュウである。
ペーロンは、その後長崎にしっかりと根付いた。ペーロン競漕に熱中する余り、各種の喧嘩沙汰を引き起したため、長崎奉行は、たびたび禁止令を出した。

これは、子供たちにも伝わっている。陸(おか)ペーロンの話が残っている。。
海のペーロンを真似て、陸上で各町の子ども達が組をつくり、他町の者たちと走り競争をした。負けた組は、町内で用意した紙ハタを奪られてしまう。すなわちハタ取りを競うのである。長崎民謡「ぶらぶら節」に“大井手町の橋の上で子供のハタ喧嘩、…”と唄われているのは、この陸ペーロンの時のハタ喧嘩の光景であるといわれています。 (抜粋)

ここで初めて「デンデラリュウ」と「わらべ歌」がつながった。

「デンデラ」が「墓場」という意味なのは間違いないだろう。

ただ「デンデラ」は長崎の方言ではない。ということは違う地域の人たちが使った言葉だろう。長崎自体、その当時は、人種のルツボ状態だった事は、間違いない。カステラ、シャボン、ビードロなど、外来語も長崎市内で当たり前に使われていた。
稲佐地区には、今でも平戸小屋という地域がある。平戸藩の侍たちが警護のために住んでいたのだ。この稲佐地区は、はるか昔をさかのぼっても純粋な長崎人だけが集まって作った地域でないことははっきりしている。

稲佐の不思議
 昔の記録を調べてみると新長崎年表(長埼文献社)によれば、貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)、肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とある。 つまり百済(くだら)国の聖明太子(せいめいたいし)という人を神様にして祭っていたのだ。百済とは古代朝鮮の国名だ。そして聖明太子(聖明王)はその国の26代目の王様である。よく考えて欲しい。日本に稲佐神という神様はいない。そしてそこでは、百済の王様を祭っている。聖明王は立派な人物だが、倭人(日本人)が神と祭るには少し不自然である。これは単純に祖先を祭ったと考えたほうが真実だろう。ということは、稲佐には百済(くだら)国の一族が住んでいたという事である。これは紛れもない事実だ。

さらにもう一つ。 
野母崎にこんな話が残っている。7世紀半ば紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流した。命が助かったのは熊野さんのおかげだと、山の上に祠をたてて住み着いたが夫の方は熊野へ帰ってしまった。また、野母崎の地名は「野の母が開いた」というので野母崎となった。こんな話である。野母崎には浦祭りというのがあり「ちゅうろう」という唄がある。この中に「契ぞうすき かつらぎの神」という歌詞がある。かつらぎ(葛城)というのは 奈良県盆地の古地名である。だが、かつらぎの神というと、役小角(えんのおづの)の事を指す。役小角とは修験道の祖、つまり山伏と呼ばれる山岳修行者の事である。空海と並ぶ超能力者だといわれている。熊野というのは古代大和の本山であり霊や神のこもる場所だ。

役小角は7世紀後半の実在の人物ではあるが、不思議な伝説が多い。「日本霊異記」の中に「孔雀の呪法を修習し奇異の験術を得たり」と書いている。カラス天狗を子分としたとも言われている。野母崎の樺島に行者山という山がある。稲佐には、からす岩神社というのがある。

 

つまり、長崎はかなり昔から、雑多な人々が住んでいたということの証明である。 「開港」という大きな流れから、さらに、オランダ、スペイン、または「キリスト教」の異文化が押し寄せてきた。その時、稲佐と場所に、これまでの雑多な文化を押し込んだ感がある。

「デンデラ」という言葉が、東北地方の言葉としても、さらに「墓場」イコール「デンデラ」といっていた人々がすんでいたことを誰も否定は出来ないのだ。

唐人さんたちが、神聖な竜を「デンデラリュウ」と呼び捨てで呼ぶわけがない。

「墓場の竜」と平気で囃し立てるのは、悪がきか、勝負にこだわった、大人気ない青年たちであろう。

「唐人墓地祭場所石壇」がつくられ春秋には祭祀法要が営まれていたとある。これはある意味、唐人さんたちのお祭りであろう。わざわざ石壇をつくって、さまざまなお供えを並べ、飲み食いしたと思われる。その中の一つに、ペーロン船(竜船)があったとしても問題ない。いや、あったほうが理屈が通るのだ。なぜなら、唐人墓地祭場所石壇が作られたのは、ペーロンが始まってからだからだ。

国際墓地清明節■長崎の稲佐にある国際墓地には長崎はもとより長崎から各地に散らばった華僑の墓所が数多くあります。
その日は朝早くから各地の華僑が各家々の墓所に集まり、掃き清め、家から持参したお供え物を墓前に上げます。無縁の菩提は悟真寺の住職と稲佐墓地管理委員会の理事により懇ろに供養されます。家長は他の墓所を余さず回り線香を上げます。その後は墓所で会食をします。 大体いつも桜の頃と重なりますので花見気分も加わり、昔話にも花が咲きます。天気が良ければ良いのですが、雨が降っても日時は変えられませんので、雨の中でのお参りになります。でもそれはそれで後からの話の種になります。(抜粋)

長崎人たちが、そのペーロンをまねてボート競走に熱中したのは、その後からである。それでは長崎人たちが使ったペーロン船とはどんな船だったのか。

初めは鯨船、インコロ船(※1) など代用漁船の時代を経て専用船が考案され、1940年(昭和15)ごろ現在の船型 に定着した。
※1インコロ船(インコロぶね):先年までペーロン船の代用に用いられたインコロ船は犬殺しとも呼ばれ、通常の 漁船に比べてやや細く、船首、尾部が高く反り上がった船型で、茂木辺りで始まったとも伝えられ、長崎市近郊から熊本県牛深を経て鹿児島北部まで分布し、高い陵波性と快速性を備えていたという。 「長崎県大百科事典:長崎新聞社発行」より

今の形になるには、かなり時間がかかっている。その当時、竜をモチーフにしていたのは「唐人さんたちのペーロン船」だけだったとおもう。

「唐人さんの墓においてある竜船」 これが「でんでらりゅう」だったのだ。
ペーロンとは競争である。さらに唐人さんたちの船はきっと早かったのだろう。喧嘩沙汰の絶えないペーロンである。各グループの小競り合いも十分考えられる。

この歌詞をを誰かが作った。「でんでらりゅう」という言葉をつかった。隠語である。曲が先にあったのか、歌詞が先にあったのかわからないが、調子のいいリズムと、韻を踏んだ言葉が面白く、みんなの耳に残った。

でんでらりゅうがでてくるばってん
でんでられんけん でーてこんけん 
こんけられんけん こられられんけん
こーんこん

(意味)
唐人さんの唐人墓地においてあるペーロン船(竜船)がある。
これがペーロン競争に出場する予定なのだが
長崎奉行の禁止令のため、出場できなくなった。(ざまーみろ)

この歌は多分稲佐で出来たのだろう。しかし 興福,崇福,福済の唐3ヵ寺の建立により、当寺を菩提寺とする在宅唐人たちはしだいに減少していった。

そして歌だけが残った。

これが結論だ。

(余談だが、エジプトにもデンデラ(ハトホル神殿)がある。こちらのほうが世界的な遺跡です。 デンデラは大きなハトホル神殿が一つと、それに付属する誕生殿やコプト教会跡が残るわりとこじんまりした遺跡です。)



イラスト ・ 文・竹村倉二
▽資料・引用…長崎辞典 歴史編 長崎文献社  風俗文化編 長崎文献社 遠野物語 柳田国男 角川文庫
遠野物語考- 高橋喜平 創樹社 遠野の昔話- 佐々木喜善 宝文館出版

ウィふり調査団 http://we.freeml.com/

E-Book へ戻る

Copyright (C) 2005Artworks. All Rights Reserved.